昭和50年03月10日 月次祭
信心はせねばならんというのではなくて、させて貰わなければおられんと、言う物でなからなければなりません。御本部参拝の事。また春の御大祭前の色んな行じの事。同時に御本部の春の御本部団体参拝の事などの、お話が唯今信徒会長からあっておりましたが。どの一言を取りましてもそれだから、ね、例えば総会だから、まぁ行かんならんというのでなくて、もうそれは行かずにはおられないもの。取分けこの御本部参拝というのは、もうそういう一つの憧念心を御霊地に燃やす。ね。
金光様に燃やす。御本部へ御本部へというその心と燃やすと言う所にです、私は信心が愈々有り難いものになって来ると思うです。是はそういうもう御本部、例えば私が四回で、三回ですかね。四神様の御大祭。十二月。それから四月の御大祭。それから十月の御大祭。これは私は必ずおかげを頂く。他のお参りの時には若先生がおかげを頂く。だからせめて親先生が動きます時、せめて親先生が御本部へ参拝される時には、もうどんな事があっても、お参りするんだと決めておくんです。
是はもう絶対おかげ頂くです。もう都合の上にも、金銭の上にも万事万端、お繰り合わせの上にも是は必ずお繰り合わせを頂きます。けどもその内には、又お試しがある様な事もあります。今度だけは行かれんなと言った様な時がありますけども、そういう時にはお試しですから、そこを押して参るおかげを蒙っておりますと。その後からもう必ずもう絶対、例えば御本部参拝をもう夫婦でさせて頂くもんだと、決めておく。
その位な信心は頂きたい。御本部参拝なんかせめて、ね、夫婦で又は親子でと言う様な、その心に定めておくんです。すと神様がその通りに動いて下さるんです。ね、中には唯今申しますお試しが御座いますけれども、そこは押して曲げてお願いしますという生き方で行くと。後はそこの所が又、より有り難いものになります。なら此処で、まぁあそこに書き出してあります方は、まぁ殆どその時にお参りをなさる方だけが書いてある訳で御座いますけれども、ね。
それでもまだ今度は行かれんとか、何かという事になりますけども、その思いというかね、その憧念心が、憧れの念が足らないのだと思います。其処ん所を一つ、あの本気でねお参りさせて頂くんだと、ね、それはお参りさせて頂かなければ居られないものから、育って行く。そしてお参りするもんだと決まった時に、そこにはもう絶対のおかげが約束される。それが私は信念を確立して行く事だと思います。
御本部参拝だけの事ではない、全ての事がです、そういう風にね、絶対のおかげになって行く、いうならば稽古にもなる事ですから。それこそ合楽にご神縁を頂いて、ね、あのおかげを頂いておられる方達は、どうでもその位なね、例えば御本部参拝というたら、ね、是もう絶対のものだと。さぁご都合頂いたのならば、丁度時期をお繰り合わせを頂いたならば、何も差支えが無かったならば、お参りしようと言った様な、まぁ程度の所からです、何があってもどう言う事があってもという。
この生き方から生れて来るのが絶対信であります。信心はその絶対信の、おかげを頂かせて頂く事にあるのです。そのなら絶対信を頂く事の為に、ね、ただいま申します様な、ね、信心はせねばならんのではない。させてもらわなければ居られんものになって来るので御座います。神様もそう言う事になれば、おかげはやらずにはおかんという働きが生れて来るんです。そこの所のおかげを願うのですから、お互いはね。そういう一つおかげを頂いて頂きたい。
今日は前講を、正教君がおかげを頂いておりました。東京に行っておりまして、その万事万端にお繰り合わせを頂いて、帰りに御霊地に参拝させて頂いた。人生はドラマだというが確かにそうです。信心させて頂く者は、ね、神様と言うならば共に共演である。ね、そういうおかげの中に私共は日々おかげを頂いておるんだという、そういう実感が、私は有り難いと言う事になるのだとこう思います。どういう場合であっても、何時も神様の働きを此処に見る事が出来る。
此処に神様のお声を聞く事が出来る。そういう日々でありたい。帰りに御霊地に寄せて頂いたら、丁度御霊地は雨であったと。どうした事でしょうか、私はそれを聞いた時に、もう身内からぞくぞくするものを感じて、感動が暫く止みませんでした。御霊地は雨であったという。皆さんも一緒に頂かれたんですね。結局こう何というですかね、その受信機の掃除じゃないでしょうか。同時に私は正教君の信心というか、それがこちらへ響いて来るんだと思いました。
奥城に参拝をさせて頂いて、愈々自分の詰らなさが解って来た。最近読ませて頂いたご本の中に、ね、福岡の吉木先生のお話を読ませて頂いて、非常にこう感銘を受けたというのです。人を当てにしない。人を責めない。ね、人を頼らない。そう言う様な徹底した生き方こそ信心だと、最近はその事に取り組めば取り組む程、自分が当てにしておる自分。責めておる自分。そういう自分に気が付く時にです、もう愈々自分は助かり難い自分だと言う事が解らせて頂けば頂く程にです。
神様に縋らなければおられないというております。その辺が素晴らしいですね。私は神様に縋らんでも、私の生き方は立派だからと言った様な中から信心は生れません。本当に例えば素晴らしい教えを頂いて、その教えと自分の有り方と言う物を、対象する時にです、出来てない自分に気が付くのです。もうほとほとあいそうが尽きる程に自分が解って来るのです。だからこそ縋らなければおられない自分だというのです。
そこからそういう例えば純粋な信心がね、内容にあって、ね、ちょうど御霊地は雨であったと聞いたとたんに感動する。ね、私は信心の生活というのは、まぁ言うならば感動の生活だと思うです。何を見ても有り難い。何を聞いても有り難い。もう目をつぶれば有り難いが自ずと出て来ると言う様な生き方。ね、そういう信心をいよいよ身に付けて行かなければいけません。
昨日、久留米の井上さんのお宅のおばあさんが亡くなられまして、丁度百日になります。だから百日祭が御座いました。福岡の大橋に住んでおられるというそのおばあちゃんの、一番の上の長女の方、私初めてお会い致しました。ある色んな事情があって、見えられなかったんですね。昨日初めてお参りなっておられました。何か信仰されるらしいんです。そしてここ丁度お祭り前に、ここを歩かれて、そのまぁいうなら部屋部屋を見物して回られたらしいんです。
そしてそのお祭りが済んだ後にお話を頂いて、ご直会場に参りました時に、しみじみと言われるんです。今日のお話を頂いて本当に有り難かった。私は今日先生がおおせられる所の、本当の極楽の世界とは、合楽の世界にそれを見ますと言われました。ずっとこう見て周られてね。今日のお話を頂いて、なるほどなるほどこう言う物がこうして此処に生まれて来ると言う事。
成程心にここに極楽のムードがあると言う事。それを私は聞かせて頂いて、又話したんです。そうですね此処がやっぱ極楽ですよ。ね、今合楽ではその極楽のもう一つ向こうの世界に住み替えようと、信者さん私を始一生懸命なのです。それが今合楽で言われておる、合楽示現活動ですと言う様な話しをさせて頂きながらです、ね、思わせて頂きました。そして私はそのお祭りが済んだ後に、こういうお話をさせて頂きました。その前の日です、吉井の熊谷さんが、お届けされます。
「だいろうばる」という所にお姉さんが行っておられまる。もう大変な豪農で、大変な物持ちのお家らしいんです。此処にも時々お参りになる。所がそこがもう大変な、ご養子が熱心なその仏教信者です。もうそれこそもう毎晩毎晩お経を長々とあげて拝まれると言う様な方。若いけれども中々感心な。ですから合楽示現活動、金光様の話をしようと思うても、中々そういう熱心な信心をしておられるからし難い。いやお話の持って行き様が無い。そんな気分でしたけれども。
昨日一昨日、その丁度あちらも御爺ちゃんが亡くなられて1ヵ年になっております。だからなんちいうですか、一周忌というのでしょう。そのご法事が盛大に行われたんです。だから向こうでですから、お出でにになりますと、そのご養子が行かれたら、言われる事が、おばしゃまもう今日はお坊さんは早う見えた。それでまだお御馳走も出来合わせとらじゃったばってん、もう出来とるとだけ重箱に詰めちから、そしてもう帰って頂いたちこう。
それを聞かれた時にね、熊谷さんが思われたんです。はぁあがしこ仏様を拝みござるけれども、教えは一つも分って御座らんていと思うた。これなら天地金乃神様のみ教えを金光大神のみ教えお話をしても、お話が入るとこう思うた。仏教は信心し御座るけれども、仏教の教えが身に付いていないと思うたとこういうのです。仏教ではまぁ一番大切にするのが、仏法僧であります。ね、仏、仏法僧というのは仏様。法というのは教えである。僧というのはお坊さんである。
この三つ三体がです一つに渾然として、有り難いものになって来る時に本当の仏教の帰依者だと言う訳なんです。金光様でもやっぱそうですね。神様そして教えを頂くと言う事。そしていうならば取次ぎの先生を、生神金光大神様として尊ばせて頂くというのです。ね、そう言う物がです一つも感じられない。第一そのお坊さんを軽うみて御座る。まぁ今の仏教で助かるとか、助からないとかという方が無理かも知れません。
坊さんも坊さんなら、それを又受ける方の側も受ける方の側だと思うですけれども、現在の仏教ではそれが普通通り相場ではないでしょうか。教えが徹底してないと言う事なんです。ね、是は是も昨日一昨日でした。萩の信徒会長であります市川さんがお礼に出て見えました。今日は親先生改めて、改まったお礼参拝をさせて頂きました、とこういうのです。成程改まったお供えを持って、その参って来ておられる。
その前日があちらの報徳祭であった。お祭りを拝ませて頂いておる内に、つくづくと今日のお祭りを此の様にして頂いておれる自分が、実に不思議であった。それから次々と思い出される事はです、まぁようも当時の椛目の大坪という、先生に廻り合うておったと言う事で、私との出会いというの不可思議さを感じる事、もう仕切にそれを感じた。もし合楽の親先生がおられなかったら、今日の私はどうなっておっただろうかと思う時に、是は大変な事だと思うた。
こういう大変な事にどうして気付かなかっただろうかと思うた。早速明くる日はその事の準備を整えて、ね、私と親先生の出会いのあったと言う事をです、まぁ是からもおかげを受けて受けて行かねばならんでしょうがです、今日までおかげを受けて来た事の、実はその事の為のお礼参拝であったというのです。ね、そこからです、ね、お取次ぎを頂く先生がこよないあり難い、所謂生神金光大神のお手代わりとして、拝んで受けて頂かれると言う所から、私は金光教の信心は始まるんだと思う。ね、
仏、神様を大事にする。教えを大事にする。ね、しかも教えも例えば正教君が言っております様にです、人を例えばもう責めないぞ、当てにしないぞ。例えばその事だけでも本気で取り組ませて頂いたら、自分の内容が目の荒いのに、例えば驚いたと言う程に、ね、そういう驚く程の自分の、いうならば程度の低い自分と言う物が解れば解る程、縋らなければおられないのが神様だと言う事を感じたというのです。
私は其の事の、を熊谷さんのお届聞かせて頂きよりましたら、ね、京都の竜安寺に「吾唯足るを知る」というあの手水鉢の有名なのがありますね。お手洗いの上に、それは中には、この水の溜まる所が口という字になっておって。それをこう私はそれを今日書いてみた丸う。してそれを四つにこうやって、あの割ってある所を頂いた。しかもその四つに割ってあるのがこうやって、こうちぐはぐに乱れておるこう。丸くなってない。丸くすれば、「吾唯足るを知る」と言う物がそこに浮んで出て来るのです。
現在のその仏教の、まぁ熊谷さんのお届けをさせて頂きながらです、ね、その程度例えば教えと言う物が全然、例えば「吾唯足るを知る」と言う様な、不平不足を言わないと言った様な、心ですらが生れていないのが、まぁ現在の仏教というか、まぁ熊谷さんのご親戚のその方のお家。拝んではおるけれども、そういう教えと言う物が生きていないと言う事だと言う事。ね、
昨日の私は「みどり」さんの所のお祭りをさせて頂いておりましたら、その事を又頂いてから、それをこう段々こうこんなに乱れ、こう四つに割ってあるのが、一つになって行く所を頂いた。少しずれておる。少しずれておるから、まぁこう判断して見れば、成程「吾唯足るを知る」と読めるなと言う様な状態でしたから。あちらも丁度御養子さんなんです。井上さんの所の。
だから「依田の方の」、いわゆる「だいろばる」の方のあちらがもう養子さんで、仏教の信者でこうだと言うと、少しは当たりがひどかろうと思うて、そう言う事は申しませんでしたけれども、ね、兎に角井上さんのお宅の場合はね、もう一切をね、有り難い有り難いという答を出して行く。同じ、例えば魚食べであるならばです、もうそれこそ頭もなからなければ、尻尾もない。いうなら腸までも美味しいと頂けれる魚食べであってこそ、本当の魚食べであると言う事です。ね、
言わばお道の信心者、信奉者はです、もう一切をあれもおかげであった、これもおかげであった。これもおかげ、あれもおかげと有り難く頂けてこそ、お道の信心。言わば金光教の本当の信者じゃとういえるのです。ね、そこにはだから不平もなからなければ不足もないと言う事なのです。そこん所が焦点にされる。それには少こうしまぁずれておる程度ですから、これが正確にこう本当の輪になった時に。
「吾唯足るを知る」という喜びが生れて来る。その喜びを持って、自分だけの喜びにせずに、それを人に伝えて行こうというのが、合楽示現活動という活動が、現在合楽で行われておるのですよというお話で御座います。そういうお話を聞きながら、昨日井上さん所の、一番お姉さんに当たる、その大橋から参っておられた方がです、ね、此処をまず先に見て、回っておいて。此処こそ極楽ムードが漂うておる。
此処こそが極楽だなぁとどの部屋を見ても、どの部屋を見てもいうならば、真善美が輝いておる。例えていうならね。勿論貧争病などあろう筈もない。ね、そういうおかげを頂いて、そのおかげを周囲に広げて行こうという運動が、合楽示現活動だと言う事を聞いて、まぁほとほと感心されたかどうかは知りませんけれども、成程そうですなと言う事で御座いました。ね、
私は今日、竹内君がお話を頂きながら思わせて頂いたんですけれども、人に思いが伝わると言う事は、自分自身が本気で、自分の非に気付いて、自分の足りない所に気付いて、それにだからこそ縋らなければおられないという、一途な縋り方をしておる、一途に教えに行じ取り組んでおるという、その姿に皆が打たれるのであり。そういう人の話に私は、感動を呼ぶ事のおかげになって来るんだという風に思うのです。
今日私は改めて、竹内君のお話を聞きながら其処ん所を気付かせて貰ました。どんなに麗麗しゅう言うて聞かせるの、して見せるのというけれども。先ずは自分自身が本当に、仏法僧でいうなら仏様、いうなら神様も尊ぶなら、ね、その教えそのものも、愈々尊ばせて頂くという信心からそうである。ね、いうならお取次ぎを頂く先生の上にも、又生神金光大神としての言わば頂き方が段々身に付いて来るという風に思います。今日は時間が御座いましせん。是で止めさせて頂きます。有り難う御座いました。